昭和四十三年八月二十八日夜の御理解    途中切れ


今晩の御祈念に合わせて順子ちゃんのお姉さんにあたる洋子さんという方、小さいときになくなられておる御霊様のお立ち日にあたるというのでおばあちゃんが昨日から何かと心づくしのものどもをもって*さまにいわゆるお慰めをしてくれとお取次を頂いてのそういうお願いがあっておった。今晩はおばあちゃんと順子ちゃんが玉串を上げられましたが御霊様へこころばかしのおばあちゃんと思い順子さんの思いがこういう様な形でいわば、現された訳です。これを考えようではあれほど教会でやらなくても自分の家で御霊様がみたまやがちゃんとお祭りしてあるのだから、自分の所のみたまやの前でそしてお供え物でもしてそして一回でもお礼でもしてもらえばそれでよい。けれども、そこんところがお取次でも頂いて助かって頂かなくてはならない。それは、人間でも御霊様でもおんなじ事だと言うようなところから、いうならば、こうして実意をこめていわば、実意を込められた訳なんです。お家でなさってもいい。けれどもそれをここに金光大神のお取次頂いて御霊様へのご挨拶なさったと言うこと。そういう生き方がね、私は最近のこれは信心というか、お道の信心でもだんだん欠けて割り切った考え方になってきておるような感じがする。信心とは何処までも本当の事を追って行く。本当の事を求めて行くことであり、本当の事を行って行くことが信心、そこからでないと信心は生まれてこない。それが信心、それが真心である。それが信心、いわゆる信ずる心、そこから、育てられるのである。今日、久留米の松栄会でここから、代表で秋永先生がおかげを頂いた。夕方かえって参りました。先ほどまで戻って話をしておりました中に先日のここで少年少女会のキャンプファイヤーの時の事が話題になった。あちらの一番下の娘さん京子さんが当時ここにガールスカウトがございませんでしたから、もう近所の人達がみんな近所の教会に行くので自分も参加したいと言うのでお取次を頂いてお願いして小原教会のガールスカウトに入った。その晩やっぱり自分も参拝させてもらい、又あちらのガールスカウトで友だちであるところの友だちの方も一緒にお参りしておった。それで結局一家をあげてここへお参りに来るけれども京子さんだけが、小原にお参りする。何か私が合楽にお参りするとスパイをしとるようで気持ちが悪い。そんなことはあるもんか。一家中あげて合楽で信心頂いておる。あんたが参ったかって何が不自然かというて一緒にお参りしておった訳でございますけれども。どうも、やはりよその教会からこの教会を見ると目が観察がね、やはり鋭い。もうそれはとてもすばらしい。あんな*しい事はなかったと。とても楽しい集いであった。とにかく、感心したことを色々お母さんとお父さんに話す訳です。なかなか見るところを見てるね。一番感心したことは小原の教会ではもう日本一のボーイスカウト、ガールスカウトの有名な所であります。もう小学校の講堂のような大きな育成体育館が今度出来ておる。秋永先生が見てきて驚いておりましたが、それはもう何百人がおります。小学校を掲げて教会に集まって来る。それはもう日本一の少年少女会というかね。ボーイスカウト、ガールスカウトの育成と言うことでは一番皆さんの注目を受けておる教会であります。そこでそのみんなのたとえば、そういういろんな活動をしておる訳です。けれどももう高校生ですから、外の幹部である。ところがここの人達の場合はね、ある日の御祈念には驚いてしもうたと言う。みんな少年少女会員が一生懸命に天津の*と奉上してからずーとブツブツいいようなさるから、なんじゃろかと思いよったら、横で聞きよった。いよいよ祈りの言葉をみんなが言うておられるのには驚いた。あーいうことは、小原ではないというて感心したことを話しておったようです。感心した事ばかりではなく、なんかいけないところもあっただろうと言うてから、それはあった。もう第一あそこは水がお粗末にしてあるのに驚いた。先ず、水が手洗いの所で出っぱなしでどんどん出よる。一番驚いたのには炊事場で水がジャージャーずーと捻りぱなしであった事であった。それから、秋永先生の娘さんと言うのであろうか。自分にはコーヒーを出してもろうた。その時他の会員が4 ̄5人どやどやと入ってきた。けれども、他の者には出されなかった。小原ではこんな事は絶対にない。どんなに偉いところのお嬢さんであろうが、どんなにいま入ってきた会員であろうが出さないなら、出さない。出すなら、出す。これには自分も呼ばれてから、不愉快だった。お風呂に寸時しもうて入ったときには豊美姉さんと一緒に入った。それはそれはお湯が少なかった。あそこはお手洗は水がどんどん出ることになっておるが、とにかく自分が一人入らんとに豊美姉さんはお湯を使っとる。しかも自分一人しか入らんというのに薬を入れられた。香水風呂に驚いてしもうた。愛子姉さんが後から入って来てから、それは姉さんが初めだから、よかじゃんのというてから、もったいなかったけれどもそう言われるから入ったと言うように素晴らしいところを見ておるかわりにそれは信心ではないと教えられておること小原辺りではガールスカウト辺りは食事のあとにね、茶碗を洗うのに三極のバケツに三杯の水しか与えられない一つでは大根などきれいに洗う、又洗う。三杯目の水できれいに洗う。それはもう非常に水を大事にされる。それにあちらではもう金光様の御信心ちゃあ水をお粗末にしてはならんと教えられるはずなのに合楽ではそれを教えられんののじゃろうかという批判をいうておりました。それで秋永先生が色々説明をしておりました。これを天地の親神様のお恵みの物だから、なんぼでも、使えるのだから、なんぼでもどんどんと使わにゃあというてもよいことが粗末なことに使われたら、これはもういよいよおかしな事です。たとえば、甘木の初代がそれこそたとえば、物を買われるのに一番安いのと買われた。たとえていうなら久留米の初代の石橋先生は一番上等のと言うて買われた。これをせんじつめて行きよるとどこまでも神様を思う切なる心が一番上等を買わせたのであり、または一番安いのを買わせたのである。同じ事なんです。神様を思うと言う情けでは同じなんです。たとえば、久留米の新田先生なんかはね、たとえば、お道の教師のプライドを落としてはならん。汽車でもその通りです。一等と二等、三等ですね。だから、だいたい二等が最高の車であった。けれども、御本部参拝でも二等より以下のにはのられなかった。甘木の先生はそれとは反対にもう途中にいかなければならない時には手前におりて歩いて行かれるほど、倹約なさった。神様の御物を大事にしてお粗末にしては神様に対して相すまんと言う心。久留米の石橋先生は道の教師たるものがです。切な心して神様の名を汚しては相すまんとどっちもだから煎じつめると同じ事なんです。ですから、久留米は華やかであったし、甘木は非常にひっそりであった。そしてまあ結論としてなら、おかげを受けておるのはどちらかというと甘木の方がおかげを頂き続けておるということですね。これはおんなじことです。だから、石橋先生の信心をただ形だけを見習って行くから、危ないです。それを聞きながら、それを思う。ここの場合でも同じ事なんです。私が例えばお水なら、例えば、かば目でまだ古い井戸を使っておる時であった。大洪水の時に近所の井戸はどんな深い井戸でも浅い井戸でも泥水でみんな使えなかった。ところがね、*目の水だけはそれこそ、普通は汚れてるにもかかわらず、あの大水の時だけは真水の様な水が頂いた。又、何年後にそして掘り出した。水なんかはおそらく*目一番であっただろう。水量の点においても水質の点においても今の*目の水はそれこそ素晴らしい水を頂くようになった。それは、なら私がたとえば、始末倹約したのではない。神の御物、神様の思いをですね。神様のおかげを受けてくれよ、とおっしゃるそのお水を私はふんだんに使わしてもらう。充分に使わして頂く。けれどもね、もうこんりんざい粗末のことには私は決して使わない。必要でないことにはいわゆる出し*なしといったようなことはしない、ということ。このお手洗場所の水の出しっぱなし、これは別ですよ。秋永先生はその事をですね、説明した。例えば、おまえがそういうけれども、そんなら、お手洗のお水が朝なら朝きれいに入れてあっても昼ごろ少なくなっておる。手ぐらい洗うばってん口まですすごうという気になるまいが、合楽の先生はね、それこそ天地の親神様が無**にお恵み下さるものは無尽蔵に頂いて生かすことが信心だと言うておられる。これをお道の信心をいよいよ世界に伸ばして行くと言ったような意味合においてはね、例えば、合楽の先生の生き方でなければ、世界の何処の*のも通用しない水をたとえばこの茶碗を洗うのに何杯しか使えならん。やはり、私が笑い話でいつも話すんですけれども合楽あたりではやっぱりですね。みんな信心さん方がね、洗面器で顔を洗うのに手を動かさず顔の方を動かす。そげん、始末倹約しておった。そこからもありがたいことを頂くけれども、またこれを教外のもの、これを世界の誰彼でも金光教の信心はこげんせんならんと言うたら、それこそついてきません。やはり、無尽蔵の物は無尽蔵に頂いてそれを限りなくもったいなしと頂いて有難く頂いて喜ばしてもろうて初めてその水が水だけの事ではありませんよ。一切の事が生きてくる。けれどもね、それを粗末なことのためには使こうてはならん。合楽の先生はね、お風呂に入られたっちゃ絶対湯桶半分しか水を使われん。お水は使われるのに湯桶半分しか汲みなさらんというくらいにしていよいよの所は始末倹約なさるけれども、ただ使わなければならないときにはなんぼでも使いっぱなしに使われるのが合楽野生き方だと言ったら、それなら、納得言った。けれども、炊事場での事は納得がいかん。それには説明しようがなかったということはです。これはなら、ここではそういうことは考えなければいけないと言うことが分かります。確かによそから来たら、水がでっぱなしということになったら、びっくりするだろう。とくにこちらの桂先生関係の教会はもう絶対水を大事になさる初代の石橋先生が教祖様にまみえられた時に一番初めに頂かれたのがお水の御恩徳であった。ですから、もうある時は御本部から、偉い先生が御説教に見えられた御結界に座っておってから、表の方をみておられると先生が入って来られた。手洗い場の所で手を洗っておられる何杯も何杯もかけて手を洗ったり、濯いだりしてから、上がって来られる。ほんでここへ来られた途端にもうあんたのような話はうちの信者に話は聞かされんと言われたという話が残っております。そう言う具合いにたとえば、徹底した水なら、水と言うことに対してもまあ謙虚な使い方をなさったんですけれども、私はそこんところも頂いてです。神様のもっともっと本当の事を頂いておるつもりなんです。けれども、これは非常に形だけまねすると危険だと言うことです。これは本当に私は秋永先生の話を聞かせて頂いて良いことを教えて頂いたうちの信者にもうちの先生はもうとにかく必要なものは必要に応じて頂かしてもらえるのだから、たとえば、水道なんか、あげん使いっぱなしなら、水だけじゃあない。電気でもそう言う使い方だろうというて秋永さんが言うた。うんそうだね。たしかにこれはね、お水を使わして頂くお水の精神と言うものを知らないといかん。神様の心というものを知らなあいかん。そして上手に使わないといかん。けれども、必要でないときはじゃあじゃあ使うと言ったような事はこれは慎まなければならん。それは御粗末、御無礼と思うです。だから、お風呂で豊美姉さんがどんどん沸かされたというのは、それはあんたが初めての珍客がきとるから、豊美姉さんがわざわざお薬を入れたり、お湯を一杯入れてあんたを入れたのである。そうかもしれんというたけれど、流し場の事だけは説明が出来なかったとうこういうておる。そう言う御無礼がある。合楽にはずいぶんあっておる様な感じがするんですよね。ですから、私の生き方を一つ本当に間違うとですね。やっぱり、本当言うたら、節約の水でもたとえば、手洗いの水でも水を出しっぱなしにせずに御粗末にならんように使わして頂くというような生き方のほうがおかげを落とさんけれどもです。本当の意味合においてからお道の信心を世界にいわば、聖教するというか、世界にそのお道の信心を広めて行こうと言うような場合にはです。私の生き方でなければ、みんなが合点せん。又神様の実は言うたら、その方が喜びだ。限りなく、湧くものを限りなく下さる。うちには井戸が三本掘ってある。50メートルからの井戸がそれでも去年なんかも、ああ言う干ばつの時にですよ。ああれだけ、沢山植木にかけたけれども一本だけで充分間に合った。出しっぱなしに出してあれだけの水を使ったけれども、と言うほどに私はおかげを受けておるということ。無尽蔵につかわして頂いておると言うこと。だから、必要に限っては、私は神様はおかげをくださる。そう言うような神様の**にかのうておるからこそなら、糀目の時の例を申しましたが、ああいう大水の中にあっても、うちの水だけは真水の様に澄んでおったという様なおかげを受けられたり、次に井戸を掘らしてもらったときにはおそらくは糀目で一番であろうと言うようなよい水を限りなくどんどん頂けたというのはです、やはり、天地の心に叶うておるからなんです。私の生き方が叶うておる。桂先生のおっしゃっておられる事よりか、もう一歩前進した本当の事だと私は思うておる。けれども、それがなら粗末なことに使われたら、これは許されないことだと私は思うなあ。いわゆる出しっぱなしである。たとえば、オフ路に入るとき、京子ちゃん、今日はもうお湯が少ないばってん、もったいないけん、これでよかたいね、足だけ流しておこうというておったら、そう言う生き方の方が、確かに有難くなる。もう、後も入らんのである。それでも、首までつかる。京子さんの為に、そう言う意味合であったに違いない。けれどもです。これではやはり、信心にならん。私は信心はね、もう割り切ったらね、信心はもうおしまい。何処までも割り切られん。何処までもこれでよいとは思いませんと言う信心、だから、限りなく使わして頂く反面には洗い桶半分といったような所もなからなけらばならない。それならばです。話はわかるけれども、なら流し場のジャージャーと出すのはどういう訳かとこれには秋永先生も説明が出来なかったとこういうとります。これは本当に負った子に教えられるというかね、教会のいわば、よその教会での稽古をしておる小さいまだ高校生位の少女の目に映った合楽の信心、そこから、私どもももう一段わからして頂いて本当にその精神をわからしてもらう。それは何処までも割切っちゃあつまらん。信心は割り切たら、もうおしまい。もう、おかげもそれまで。そういう信心では、何処までも限りなく私は本当の事を追求して行く本当のことを神様はたとえば、今日水なら水だけのここを申しましたけれども、水だけの事ではありません。限りなく無尽蔵にたとえば、****